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アキちゃんのお部屋


あきちゃんのつぶやき日記
by naoko200445
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ああ野麦峠

久しぶりに、アキちゃんの中の人の話をしたいと思います。

 私は、1986年の春~1990年の夏までの4年間
(中学卒業~20歳まで)
とある紡績工場で、親と離れ寮生活をしながら、
①朝は4時に起きて作業服に着がえ、工場へ行き13時30分まで働いて、
その後15時から制服に着がえ、敷地内にある学校へ行き3時間勉強して、

終るとよるご飯を食堂で食べて、これで自由な時間が出来ると思いきやその後
屋上に行き洗濯をして、すでにこの時間になると疲れが出てきて、部屋に戻ると
座りながら寝ているしまつで、その後何かする気にはなりませんでした。

上記のサイクルで1週間その次の週は、

②朝9時から勉強で、お昼ご飯を食べてそのまま工場に行き
13時30分~22時まで働いて、寮に戻りお風呂に入り、洗濯をして
起床するというサイクルで、1週間交代で働いていました。

工場にいる時の食事は、機械を全部止めて食事する訳にはいきません、
ですから

①-Ⅰ 7時~7時45分
    Ⅱ7時45分~8時30分
    Ⅲ8時30分~9時15分

②ーⅠ 17時~17時45分
   Ⅱ 17時45分~18時30分
   Ⅲ 18時30分~19時15分

となっていました。
何年間か過ぎると余裕も出てきて外出したりしました。

私はまだ良いほうでその工場が自分の住んでいる市にあったので、休みには家に
電話をしたり帰ったり出来たので寂しくありませんでした。

この話をすると、「大変だったね」とか「辛かったでしょう」とか
言われるのですが働いている時は毎日ガムシャラに過ごしていたので
辛いとか大変だとか思いませんでした。

今思ってみるとこの4年間の体験は私にとって
無駄な事ではなかったような気がします。

 紡績工場を止めてまもない頃
1979年に映画でやった あゝ野麦峠(主演 大竹しのぶさん) をテレビでやったのを
見て泣いたのを覚えています。
その時の私はまさか!実際の話だとは思ってもいませんでした。

最近良く、その映画の夢を見るので、どうしてもその映画を見たくて
検索をしてみた所、実際にあった話の記事ばかり検索にかかるのです。
よく読んでみると、

(ここから先の記事はかなり残酷な事が書かれていますから、気分が悪くなる恐場合があります
体調がすぐれない方は、見ないようお願いします。)

それとこういう記事を呼んで気分を害される方は読まないようお願いします。


記事1
記事2
記事3
記事4
記事5
女工哀史購入はこちら
女工哀史の著者 細井 和喜蔵さんはこの本を書き上げて
まもなくお亡くなりになったそうです。

ああ野麦峠の一節では女工1人1年間100円稼ぐのが大変な時代に
お雇い外国人の月給は、
明治7年政府統計ですと、太政大臣三条実美の月給800円
と同額の人が10人もいたそうです。
ちなみに、重臣岩倉具視が月給600円、参議大久保利通は月給500円
よりも、200~300円も多い額です。
そんな、お雇い外国人の数は、政府雇いだけで、500人もいたそうです。


(この時代米一升12銭3厘・酒一升20銭 100円あれば家が建てられたそうです)
(明治33年頃100銭で1円)

こんな時代の中で当時生糸・紡績とうで、まだ12~13歳の幼い子供達が
女工として働き身体をこわし家にも帰れず亡くなった子もいたそうです

もっと酷いことがあり、紡績に勤めていたある女工が機械を止めて掃除をしていた所
それをきずかなかった人が機械を動かしたため亡くなった女工もいたそうです。

病気で亡くなったので、荷物として送られた女工もいたそうです。

1少女が大阪のある紡績工場に応募して行き募集人(詐欺師のような人)
の誘拐の手にかかって遂に東京まで連れて来られた末
金1円で肉(多分身体)を売る亀戸の淫売窟へ身を崩した。
女工もいたそうです。

私はこの子達と同じ仕事をたった4年という短い間でも
出来た事を誇りに思います。

本当の明治の時代をこんな11~20歳のいたいけない少女たち1人1人が
犠牲となって発展していったのだという事を忘れてはいけないのだと、思います。
by naoko200445 | 2007-08-23 12:55 | 自分の事